2014年8月4日月曜日

仙台大神宮は茂庭周防屋敷跡

五ツ橋通りの西の端、片平1丁目にある神社。
「仙台大神宮」
なんとも大仰な(?)名前ですが、伊勢神宮の分社で、起こりは明治14年とのことですから、それほど古いわけでもなさそう。

XZ-2, P8019484
これまで、存在はもちろん知っていましたが、あえて取り上げるほどでもないと思ってました。
しかし、この日通りかかったとき何気なくみた看板・・・そこに書いてあったのは「茂庭周防屋敷跡」の文字!なんと、そんな由緒が・・・

以下抜粋

茂庭周防屋敷跡
茂庭氏は伊達氏第一世朝宗以来の功臣で志田一万五千石を領す。
鬼庭氏と称していたが、朝鮮出兵の際に政宗公に従い、秀吉に謁し寵遇を受け、秀吉の命により茂庭の姓を名乗るようになり、のち代々茂庭氏と称した。
伊達騒動(寛文事件)の時、周防は病をおし奔走し忠誠を尽くし江戸において乗り物ご免の栄を受けた。
「重禄者をして国政を執らしむ勿れ」と自ら職を辞し、松山に帰る。
四代藩主綱村公はしばしば松山の屋敷に訪れ、佩刀器物を与えその功をねぎらった。
宝永3年(1706年)7月6日没
仙台市

なんだか、時代が錯綜しているようですが、
伊達氏第一世朝宗公(1129-1199)は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将ですので、当時は「茂庭氏」ではなく「鬼庭氏」だったのではないかと思われます。

この鬼庭氏、元は山城国の斎藤行元を初代とする「斎藤系茂庭(鬼庭)氏」の流れのようです。しかし行元の子はすでに養子で基良、が平治の乱のあと山城国を離れて下総国、そして下野国を渡り歩き、1192年に基良の子、実良がようやく陸奥国伊達郡茂庭に土着する・・・とあります。
その後、茂庭村が鬼庭村に、そして実良も斎藤から鬼庭に改姓したとされています。その後鬼庭氏は領主・伊達氏の家来となったそうです。

鬼庭氏が伊達家の重臣としての地位を確立したのは・・・13代良直、つまり鬼庭左月斎のときで、彼を評定役に抜擢したのが、政宗公の父・輝宗公であったそうです。

朝鮮出兵時に秀吉から茂庭姓に・・・というのは良直の子、有名な綱元のエピソードですね。

志田郡松山町は、宮城県の中北部にありましたが、今は平成18年の大合併で大崎市の一部となりました。この志田郡松山城を拝領したのは、綱元の子、良元のときで1603年とのこと。その後知行を一万石まで加増され、最終的には一万三千石に達した・・・とあります。看板の「一万五千石」とは?

伊達家家臣の中で一万石以上を拝領したのはたった二家、片倉家と茂庭家でありましたが、その茂庭家を盛り上げた良元が、茂庭周防だったとのこと。

ちなみに、現在仙台市太白区にある茂庭という地名は、この茂庭家(斎藤茂庭氏)ではなくもう一つのほう(河村系茂庭氏)に由来するということがわかりました。私は勘違いしてました・・・

河村系茂庭氏のルーツは、1189年の奥州合戦(源頼朝の奥州藤原氏征伐?)で武功を挙げた河村秀清が、恩賞として名取・斯波・岩手・耶麻の各郡に所領を与えられたときに、名取郡茂庭に居館を設けたのが始まりのようです。